社会の意思決定へ影響し始めた科学 〜科学の新しい社会とのかかわり方〜

今日から、何回かにわたって科学と社会についてをテーマにして考えて行きたいと思います。今日は、科学と社会に対するかかわり方について述べたいと思います。


科学は、意思決定に積極的に関わるようになってきた。
これからもっとそうしなければいけないのでは、という話です。


■これまでの科学者の社会における役割 〜"ドラえもん"としての科学者〜
科学は、世界を便利に、効率的に、より住みやすくするための技術、製品を生みだし、社会に貢献してきました。


身の回りの家電製品、車、飛行機、船などの乗り物、薬、合成繊維などの有機合成化合物といった産物は、どれも科学をベースにしており、暮らし、そして社会を豊かにしています。


これまで、科学者、工学者、薬剤師の成果はこのような形で社会に貢献してきました。
つまり、便利な道具を次から次に繰り出すドラえもん的な立場として、社会とのかかわりを持ってきました。
そして、社会の側もそのようなことを科学に期待している、という構図があると思います。


■科学の本質
上記では、実は科学と技術を一緒にして話しています。
ですが"科学"と"技術"は分けて考えるべきです。


科学は自然界に潜む、原理や原則を扱う学問である、というのが私の認識です。
一方、技術とは、自然界の原理、原則に基づいて、人間社会の効率性、便利さを追求するために生み出された"ソリューション"です。目的をもって、科学をベースに生み出されるものです。


つまり"科学"は、世の中に役に立つ"技術"を生み出すベースとなってきた(ドラえもんの道具を作るためのベースとなってきた)、といえます。


ですが、科学の本質は"自然現象から、原理を見抜く"ことにあります。


そして、この本質が、社会に対してドラえもんの道具を生み出すというのではない形で活用され始めてきているのではないのかと思います。


■"意思決定"にかかわる科学者
それは、"意思決定"に関わるということです。といっても、ORのことを言っているわけではありません。科学によって得られた知見を、政策意思決定などに反映していく、いうことです。


科学が意思決定に影響する代表的な例は、地球温暖化、環境問題で一躍有名になった"IPCC"だと思います。


IPCCとは"Intergovernmental Panel on Climate Change"、日本語に約すと"気候変動に関する政府間パネル"となります。
数千人単位の科学者の気候変動に対する知見を集約した"評価報告書"を発表し、各国の政策に強い影響を与えています。
IPCCには科学者以外の政府関係者も含まれるため、純粋な学術機関ではない、政治的色彩を帯びた組織ではありますが、科学者からの意見、ということを前面に打ち出した組織です。


このような科学者集団が、国際的な政策意思決定に影響を与える、ということは今までにあまりなかったのではないか、と認識しています。
これは、科学の知識をもった人たちが、自然の原理から、将来起こりうるリスクを予測・評価し、政策決定へインプットとする、という新しい流れです。


このような"科学者が意思決定に積極的に働きかける"動きは、ドラえもん的な役割とは別の、20世紀後半ごろから始まった科学の新しい大きな流れなのではないかと考えています。(IPCCの設立は1980年代です。いつごろ起こり始めたかの詳しい検証は今度別の機会にしたいと思います)


私は、このような形で科学(科学者)が意思決定に関与していくのは、社会からの要請でもあるし、人類が生き延びていくためにも、必要なことだと思っています。


しかし、今までは、科学者が積極的に意見したりすることは少なく、意思決定をするほうもうまく活用してきた、とは言いがたいと思います。


現在の問題点はなにか、科学者は意思決定にどうかかわるべきか、それを今週は考えて行きたいと思います。
今日は日本を例にとってすこし考えたいと思います。


■日本での理系、科学者の扱い
日本で、意思決定、科学者、理系というキーワードで考えてみると、浮かび上がるのは各省庁にいる技官系の職員です。


各省庁で、彼らはさまざまな任務を遂行しています。
しかし、彼らが意思決定に科学の知見をどれだけ反映させられているのかは怪しいと思います。


たとえば九州の諫早湾の問題。環境アセスメント等いろいろやったはずだが、結局失敗に終わっています。
JST失敗知識データベースの失敗事例の"原因"欄には、いくつかの直接的な理由が書いてありますが、その本質は意思決定過程に科学者が関与できていないからではないか、と思います。


厚生労働省にも例があります。思いつくのは、子宮頸がんのワクチンです。やっと認可が承認されたが、国外での実績はすでにあり、もっと早く承認されてもよかったのではないでしょうか。理系の知識があれば、リスクがないことをもっと早く判断して、早期の導入も可能であったかもしれません。
それで助かる命もたくさんあったのではないでしょうか。


このほかにもたくさんありそうです。環境省運輸省など、上記と同様な失敗事例が各省庁で少なくともひとつはあるでしょう。が、それは今後機会があれば検証したいと思います。


このような例は、理系の技官や科学者の発言力が決定的に弱いことに原因があるのではないかと思います。


どれも理系の人たちは意見しているのかもしれないですが、最終的な意思決定まで意見を通すことができず、失敗や遅延の原因になっているのではないでしょうか。



■理系と文系の上下関係
なぜこのようなことがおきるのでしょうか。日本に限って言えば、理系と文系の役割分担みたいなものがあり、それが原因なのではないかと思っている。


たとえば、省庁において、理系のキャリアを経てきた人は、事務次官になることはまれだと聞いています。つまり出世することができない。意思決定を行うポジションに、科学者の立場からものを言う人間があまりいないのではないだろうか。


どうしてこのようなことになっているのでしょうか。
想像にすぎませんが、理系のやつらはなにか突拍子もないことをするやつらである、なので何するかわからないから、コントロール下におかなくてはならない、そのような考えがあるのかも知れません。


理系には独創性に富み、それを形にすることができる人間が多い。そのためにたくさんの革新を成し遂げてきたと思います。


しかし、その技術は薬にもなれば、毒にもなる。そのことを考えて、それを統御する人間がいなければならない。そのために、理系はトップにはなれないのではないか、そう考えています。


この考え方には一理あると思う。確かに、なんでも作りたい、なんでも試してみたい、という純な気持ちが、理系のイノベーションの源泉であり、とりあえずやってみたら、こんなのができました、という例は多い。
そして、それが社会にどう影響を及ぼすのか、どうあるべきかなんて理系は考えない。
理系の成果を生かすか、殺すかは文系の人間が判断する、そんなところではないでしょうか。


しかし、その生かすか、殺すか、を文系の人間が判断してよいのか、判断できるのか、という問題があります。


昨年行われた事業仕分けで、科学に関する予算も対象となった。スーパーコンピュータの予算や、毛利さんの未来科学館も対象となりました。


科学者たちは、何とかして予算を獲得しようと、その事業の必要性を訴えていましたが、これはまさに文系が理系を治める、という構図のわかりやすい見本ではないでしょうか。


もし、毛利さんなどの科学の立場にいる人間が、蓮舫さんの側にいたらもう少し違った結論になっていたでしょう。


■科学者は意思決定にどこまで関与してよいのか
科学者は政策意思決定に、科学知見をもとにもっと関与していくべきだと思っています。(どんなよいことがあるかは、今度説明します)


じゃあ、科学者はどこまで関与すべきか。
科学者を全面的に信じてよいのでしょうか。


そうは行かないでしょう。科学者だって人の子です。
自分に研究費がたくさん入ってくるように政策を変えるとか、予算をつけようとするとか、そんなことは普通にしようとするでしょう。


ではいまのままでよいのでしょうか。蓮舫さんにやられるがままでよいのでしょうか。


社会のために、科学者の知見が必要な場面は必ずあります。これから増えてくるはずです。
彼らの知見を、うまく意思決定のインプットとするような"仕組み"が必要なのではないでしょうか。


■技官の地位向上と、民主的に選出される科学政治家を作ろう
科学の知見を意思決定に生かすためには、政策意思決定のインプットの提出を行う側と、意思決定をする側の両方にいなくてはいけないと思います。

前者のイメージとしては、IPCCのような影響力のある科学者集団を作るということです。


後者の立場の人間を増やすためには、省庁の中の技官の地位を向上させること、そしれ民主的に選出された科学者(科学の立場から政治にかかわる人)が必要だろうと思います。


ちなみに、鳩山首相は理系の出身だが、かれは理系の科学者の立場で首相を務めているわけではありません。なので、科学者の視点から政策の意思決定を行う、ということは難しいのではないだろうか。


国内での環境や医療などの分野に、IPCCのような影響力のある科学者集団の存在と、それらをリードする政治家、のような人たちが必要なのではないでしょうか。


■科学コミュニケーションへの期待
すこし話は変わるが、科学コミュニケーターを養成しよう、という動きがあります。
彼らは純粋に科学への興味をもってもらおう、科学の裾野を広げよう、ということでこのような運動をしているようであるが、意思決定への科学の参加、という視点でもこれらは必要だと思います。


科学の立場にたった政治家を選ぶためには、選ぶほうも科学ことがわからないといけません。
その人が言っていることが正しいのか、妥当性があるのか、を判断する必要があると思います。

そのような国民を育てていく、という意味で、科学コミュニケーションはこれから進めて行く必要があると思います。


■おわりに
とまあ、思いつくままにかいてみました。
最後に言うのもなんですが、ほとんど仮説です。

明日からは、少しずつ掘り下げたり検証したいと思います。