いまも心に残っている言葉〜身近な人の言葉を座右の銘に〜

皆さん、あけましておめでとうございます。fusatonです。


このあいだ書いたばかりと思っていたら、もう4か月も開いていました。
時間が立つのが恐ろしいほど早いですね・・・


さて、今日のテーマは「心に残っている言葉」です。


いままで生きてきた中で、いくつかの心に響いた言葉があります。
そして今でも自分の仕事、暮らしの中で響く言葉です。
まあ、身の回りの人が教えてくれた座右の銘みたいなもんですね。


その言葉を発したのは親や学校の先生、友達、先輩、過去の偉人たちなどさまざまですが、
今回は10の言葉をご紹介したいと思います。



1. 「頭は生きているうちに使え」


これは父の言葉です。


なにか困ったとき、そしてそれにうまく答えが出せないでいたり、まごまごしていると
父が解決策をしめした後に、決め台詞のように「頭は生きているうちに使え」と言っていました(今も言っています)。


言わるたびにイラっとしていましたが(笑)、この言葉のせいで、問題にぶち当たった時に何とかしなきゃという気持ちが大きくなった気がします。
いま考えるとちょっとキザな言葉ですが、これで自分の問題解決力が養われたような気がしています・・・



2. 「Simple is Best」


これも父の言葉です。
小さいときには何のことかさっぱりわかりませんでしたが、
今は毎日のように感じています。


なにかデザインしたり、決めたりしようとしたときに、複雑になってしまうこともありますが、
僕の経験では、そういう複雑な結論は得てして失敗に終わることが多いような気がしています。
そして複雑なことはコストがかかります。


シンプルが一番、と毎日のように僕も思うようになりました。



3. 「よく観察しなさい」


これは大学学部4年生の時の指導教官の言葉です。
当時僕は生物の生理的現象のシミュレーションに盲目的になっていたのですが、
そんな僕を見て先生が言った言葉です。


シミュレーションはあくまでも人の頭の中でしかない、
そんなものの外側にこそ「真実」があって、それを「発見」することのほうがよっぽど価値がある、
というような意味だったのだと思います。


これは今の仕事でもとっても役に立つというか、
今でもなかなかできないことが多いことです。


観察力、洞察力を磨くというのは一生のテーマのような気がします。



4.「知行合一


これは陽明学の命題の一つです。
僕はこれを「知っていることとは実行できること」
もしくは「実行できないのでれば理解しているとは言えない」という意味として解釈しています。


これも日々の仕事、暮らしのなかで痛感することが多いです。


自分も含めですが、なにかをやろうとしてできないのは、
そのやろうとしていることに必要なことを理解できていないからです。(当たり前ですが)


ですが、若いときはなおさらですが、なんでもできる気になってしまうことも多いと思います。
そんな状態を戒める言葉でもあります。


なおwikipwdiaによれば、


”「知は行の始なり、行は知の成るなり」、
つまり、知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成である”


ということだそうです。



5.「まずはやってみないとわからない、だからやってみなさい」


これは大学院生のときの指導教官の言葉です。


この先生はご自身で大学発ベンチャーを起こされた方で、
リスクを負わなければ新しいことはできない、という意味だと僕は理解しています。


これも最近そのとおりだな、と身に染みてわかるようになってきました。
会社を興すような大きな話ではなくても、日々の暮らしの中で十分実践できることだと思います。



6.「小さく縮こまるな」


これは大学の時の友人の言葉です。
自分ができる範囲ですべてを収めるのは心地よく、安全ですが、
人間の度量、器みたいなものは元のサイズのまま、成長することはありません。


僕がそのようにみえたのかどうなのかは不明ですが(笑)、
これもいまも僕の心に響く言葉です。



7.「困難は分割せよ」


これはかの有名なデカルトの言葉です。
この言葉はとても具体的で、仕事でこのことを痛感することが多いです。


分量が多い、とてもすぐにはゴールにたどり着けそうもない問題でも、
適切に分割すれば一つ一つは解決できるサイズになります。


この言葉はとても有用で、普遍的な言葉なのだと思います。



8.「問題はなんですか」


これは僕の言葉です(笑)
仕事でやたら責められたとき、お話にはとても時間がかかってたくさんのことを言っているようなのだけれど、
なにが一番いいたいのか、なにがいけないのかが分からなくて、自然に出た言葉です。


べつに喧嘩を売っているのではなく、単純にそう思っただけなのですが、
これを聞いた相手は「うっ」となっていました。
そしてよくよく聞いてみると問題はとても些細なことでした。


この言葉はある意味パニック状態になっているときによく効く言葉だと思います。
自分でもあれあれあれ?どうしよう?となっているとき、問題はなにか、と自分に問うと、
問題の一番深いところまでいけるような気がしています。(気がしているだけかもしれませんが)



9.「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ」


これは山本五十六の言葉です。
後輩や部下に仕事をお願いするとき、
ただの命令口調でやっても一時は動いてくれるかもしれませんが、すぐそんなのは効かなくなってしまいます。
自分もこのことで困ったことがありました。そこで悩んでいた時この言葉に出合いました。


自発的な行動を促すためには、このようなやり方がベストなのでは、と思っています。



10.「大丈夫、大丈夫」
最後になりますが、これは僕の小学校の時の先生の言葉です。
そして、つい最近聞いた言葉です(笑)。


いまだに小学校の恩師と交流があり、なにか忘れましたが相談事をしたときに、
諭すように「大丈夫、大丈夫」とその先生がおっしゃりました。


ありきたりな言葉ではありますが、その先生が発することで、
本当に大丈夫かも、と思えたのです。
これってすごいなーと思いました。(ちょっと危ないかな・・?)


たぶん大丈夫じゃないことも沢山世の中にはあると思うのですが、
生きる上では、精神安定剤的な意味でも、とっても重要なんじゃないかな、と思います。



と、以上10個の言葉をご紹介しました。
新年、この言葉をもう一度胸に刻んで頑張ろう!と思ったのでした。

老いゆく日本〜各国の「平均」年齢から考える〜

皆さんこんにちは。fusatonです。

最近NHKの「哲子の部屋」という番組で、ユクスキュルの環世界について取り上げられたらしく、その影響で私の記事「あなたには何が見えていますか〜ユクスキュルの環世界から考える〜」のアクセスが突然上昇しました。
沢山の皆さんの目に触れることになりましたが、どのように受け止められたのかちょとドキドキです。


さて本日は「老いゆく日本」と題して、平均年齢から
日本の未来をすこし考えてみたいと思います。


■老いゆく日本


まず以下のデータを見てください。

世界経済新聞 各国の平均年齢より転載
http://sekaikeizai.blogspot.jp/2012/11/blog-post_30.html



これは各国の平均年齢(平均寿命ではありません)の推移を表したものです。
ます表をみるとわかるのは、日本は欧州よりも「年齢が上」であり、先進国のなかでも「老いている」ということです。
(インドが赤いのは、この引用元の記事がインドに着目した記事だからです。今回のテーマには関係ありません。)


若い人が多い国と、年寄の多い国、それぞれメリットデメリットはあると思います。
若い国が活気にあふれるでしょうが、ある意味で成熟していないともおもうので、様々な問題がおきるでしょう。ニュースを見ていると社会的な混乱が多いのはこうした若い国であるような気がします。


逆に、年齢が高い国は、活気という意味では若い人が多い国に比べるとおとる思います。ですが、あまり社会的な混乱はない、住みやすい社会になるような気もします。
活気が劣る、ということは新しいことを生み出したり、経済を盛り上げたり、文化を活性化させたり、ということができなくなってくる、そんな気がします。


日本は現時点でも世界では「年長」の国ですが、
上記の表を見て分かるようにそれが若返ることはなく、さらに年齢を重ねていくことが濃厚です。


つまり国としての活気がどんどん失われていく、そんな風に考えることもできるのです。



■老いることは悪いことか?


国の活気が失われることはあまりいいことではない、そう考える人もいるかもしれません。


しかし、私はそうは思いません。


よく言えば「成熟していく」ということなのだと思います。
若いときにはできないけれども、成熟した大人にはできることはたくさんあります。


文化、価値観、いままで積み上げてきたものを見せることで、
世界のお手本となることができると思うのです。


老いた日本の経済がどうなるか、私にはまったくわかりません。
しかし、老いているからこそできることもあるわけで、それを日本の
「価値」として、世界に示していけばいいのではないか、と思うのです。




■成熟した日本を世界に示そう!


老いゆく日本ということは、私が言うまでもなく、すでに日本人は認識していると思います。

そして、そのことが語られるときは、老いることのマイナスの点、大変なところにだけ目が行ってしまっているような気がします。
例えば福祉、年金、介護が大変、というような話題です。


ですが、私は世界よりも年長であることを生かして、
存在感のある国になっていけばいい、そのような活動をしていかなくてはいけない、そう思います。
日本をこんな国にしよう、こんなことを世界に発信しようというような外向きの活動をどんどんしていくことが、社会の活気にもつながると思うのです。


ただ、老いる、ということと、成熟している、ということは違います。
年齢を重ねても、成熟できないこともきっとあると思うのです。


私も成熟した、世界のお手本になれる日本人、そういうものを目指したいと思います。(難しいかな・・・)


以上、終わります。

テストは何のためにあるのか〜選別するテストから育成するテストへ

皆さんこんにちは。


最近全国学力テストの結果がニュースで流れています。
このニュースをみて、「テスト」のついてちょっと思うところがあったので、
今回はこれをテーマにします。


■テストはなんのためにあるのか


さて、皆さんは何等かのテストを一度は受けたことがあると思います。
学校の定期テスト、入学試験、入社試験、資格試験、etc
テストには様々な種類があります。


これらのテストは何のためにあるのでしょうか?
そんなの考えるまでもない、という声も聞こえてきそうですね。


定期テスト内申点のため。内申点は入試のため。
入学試験も入試のため。
入社試験は入社のため。
資格試験は資格取得のため。


もちろんそうなのですが、これらはある一つの目的に集約されると思います。



それは「選別」です。



これらのテストは、テストを主催する側が、その組織に人を集めるときに、
選別をするために実施されています。
入試は、偏差値というモノサシで人を図り、そのモノサシのなかで優秀とされる人間を選別しています。
入社試験も、偏差値ではないにしろ、何かしらのモノサシで人間を選別しています。
資格試験は、結局は入試、入社のためのモノサシを提供しているのにすぎません。


現在、世の中にあるテストの目的は「選別」にあるといってかまわないのではないかと思います。


■全国学力テストは「選別」のテストなのか?


さて、世の中にあるテストは「選別」のためにある、と言い切ってみましたが(笑)、
国学力テストは何のためにあるのでしょうか?


このテストは、同じ問題を全国で実施して、都道府県別で平均点が公開されます。
そして、マスコミはその都道府県別のランキングを報道して、世の中の目を引こうとしています。


このテストの目的はなんなのでしょうか?
都道府県を序列化することが目的なのでしょうか?
そしてその序列で何等かの選別を行うのでしょうか?


私はこのテストは選別が目的ではないと思います。


本来の目的は、個人の学習到達度を図り、学習が遅れている子はケアする、
進んでいる子はもっと伸ばす、その判断をするための、いわなストップウォッチのようなものだと思うのです。

国学力テストは、序列化が目的でも、選別が目的でもないと思います。
文部科学省はどう考えているかわかりませんが、私はそのように思います。


■育成するため、成長するためのテスト


テストには「選別」の目的がある、そう述べました。
その目的は今後も残ると思うのですが、今後のテストの主たる目的は、先にのべたように、
全ての個人が学びを進めるための指針としての位置づけであるべきだと思うのです。


子供が、大人が、すべての人間がなにかを「できるようになる」。
学ぶ→理解できているか確認する→学ぶのサイクルの一部としてテストはあるべきだと思います。
序列化や選別の道具としてのテストは出番は少なくなるべきと思います。


もちろん、こんなテストなんて受けなくてもできるようになる子はたくさんいるかもしれません。
でも個人的な感覚から言って、大多数の人間はテストのようなストップウォッチの機能を果たすものがないと
なかなか学習がすすまないのではないでしょうか。


さらに、ストップウォッチの性質を持つテストは、おそらく何度も受験することになると思います。
なので、一発の試験よりも、生徒を募集する学校、新入社員を集める会社はその中である程度のスコアをとれているのであれば、
再度テストを受ける必要もなく、基本OKのようなスタイルになっていくと思うのです。
(テストを何度も受けているのであれば、それは学習意欲の表れにもなります)


学びの結果としてのスコアを選別の「参考」とすることはあるとしても、
最初から選別を主たる目的とするテストは、存在感も薄れ、その重要性は低くなると思います。


■テストで人を判別することなどできない


ここまで読み進めてくださった方の中には、結局スコアで人を評価しているのだから、
育成するテストだ、なんて言いながら結局選別のためのテストじゃないか、という意見もあるかもしれません。


私は、テストのスコア自体は「参考程度」にすべきである、というスタンスです。
つまり、どんな形であれテストでなんか人は完璧には計れない、というふうに思っています。
(アタリマエ、と思われるかもしれませんが。。)


例えば、入社試験のSPIのスコアが高い人物が、入社後優秀な人材かどうかというと、ほぼそんな相関はないことが知られています。
また、学校の成績と入社後の優秀さにもあまり相関はない、とも言われています。
テストで計れるのは、「読み書きそろばん」ぐらいである、というのが私の大前提です。


なので、そもそもテストのスコアは参考程度にすべき、と考えています。


■まとめ

まとめです。
・「育成・成長」がこれからのテストの主な目的になるべき
・そもそもテストで人間を選別することなんてできない

というのが本日の結論です。
以上、終わります。

技術的特異点(テクノロジーシンギュラリティ)と教育

皆さんこんにちは。fusatonです。

さて、今日は技術的特異点(テクノロジーシンギュラリティ)と教育
というテーマについてです。


まず、技術的特異点、とはなにかご存知でしょうか?聞きなれない言葉だと思います。
これが何かもわからない方(ちょっと前まで僕もそうでした)も、
ご存知の方もご一読いただければと思います。


■技術的特異点(テクノロジーシンギュラリティ)とはなにか
ちょっと前に、WIERDのセミナーのようなものに参加したときに知った言葉なのですが、
簡単に言うと、人工知能が人間の知能を超える時、のことです。
人工知能がどんどん進んで行って、人間が行う高度な知的行為が、人間以外でも実施できるようになる、
ということだそうです。


高度な知的行為とは、たとえば科学者、医者、弁護士、編集者などいわゆる専門職が担っているような職業や、
経営などのビジネス行為が含まれると思います。
そして、おそらく芸術、音楽といった文化的な分野でもこの技術的特異点がおそらくあらわれると思います。


しかもこれが、2045年頃に起こる、と予測している学者もいるそうです。
そのため、2045年問題、という呼び方もされています。
この考え方はアメリカで比較的盛んな未来学の分野で提唱されているもので、
イデアとしては昔からあるものようです。


技術的特異点、その基本的な意味をお分かりいただけましたでしょうか。
では、この技術的特異点に至ったとき、人間はどうなっているのでしょうか?
ちょっと考えてみました。


■技術的特異点を迎えた人類の暮らしは?
技術的特異点を超えたとき、社会はどのようになるのか?
まず最初に浮かんだのは、仕事はどうなるのか、ということです。
おそらく、ほぼすべての仕事はすべて機械・ロボットがこなせるようになる、ということになります。
よって、仕事の管理をする人たち、それもごく少数の人たちと、その仕事・ビジネスのオーナー以外は人間ではなくても
問題なくなってしまうのでは、と思います。


では人間は、社会はどうなってしまうのか?
楽天的なグッドシナリオとしては、
いわゆるベーシックインカムのような形で最低の生活の為の費用の保障がなされ、
人は基本的には働かなくてもよいような生活になるのではないでしょうか。
健康上の必要から、身体に負荷をかけるようなことはあると思いますが、
身体を使った仕事もほとんどなくなるのでは、と思います。
もっとも、そのためにはエネルギーや資源などの問題がクリアされることが前提だとは思います。
(これらが不足している限り、人間が何等かの形で働くことになると思います)


もう一つ、バッドなシナリオとしては、
大多数の人間の雇用が機械に奪われ、収入を得ることができず、
一部の人間はものすごく富み、ほとんどの人間は貧困を極める、という地獄絵図です。
どっちかというと、こっちの方が現実に近いかもしれません。
(貧富の拡大という意味では、現在もその傾向にあります)


グッドシナリオになるのか、バッドシナリオになるのか。
それは、今の私たちがどうしていくか、どういう未来を築きたいのか、
にかかっているのと考えます。


■技術的特異点後の教育について
上に述べた、グッドシナリオ・バッドシナリオそれぞれで、
その時代に生きる人々はどのような教育が必要になるのか、最後に少し考えてみました。


グッドシナリオの場合、働くために必要な知識の獲得は、原理的に必要がなくなります。
仕事は全て機械に任せておけばよい。その機械を管理する人たちはのこるでしょうから、
その人たちはある程度専門知識を獲得する必要はあると思いますが、それはごく一握りです。
では大半の人たちはなにも勉強しなくてよいのか?


おそらく、コミュニケーションに必要な語学や、文化的な素養などは
人が人と会話をする、ということをやめない限り今後もずーっとつづくでしょうし、
人間は会話することをやめることはないと思うので、残るのでしょう。


それ以外の、いま存在するあらゆる学問は残るでしょうが、
いまのように職業を得るために働くということはなくなるのでしょう。


ただ、法律のような学問は、人間が最終的に法律的な判断を下すでしょうから、残ると思います。
(それがいまの弁護士に求められるような内容とはことなって、もっと簡略化されたものになると思います)


ただ、職業上の必要性よりも、人間として健全に育つために、
いまのような勉強というか「学び」は残るし、発展させていかなければいけない、と思います。


バッドシナリオの場合はどうなるのか?
おそらく、生き残るためにグッドシナリオの時よりも
教育(勉強)の必要性は高まるのではと思います。


よく勉強のできる子が、社会的な重要なポジションに配置される。
機械を管理する、機械によって繰り広げられるビジネスを管理する、
ということは人間がやるでしょうから、そのポジションにつくために求められる知識、
今でいえばコンピュータサイエンスなどの理系の知識や、法律や経済学などの文系の知識の両方が求められるでしょう。


グッドシナリオでもこのようなことは起こりえますが、ベーシックインカムがあるのでそこまでの競争にはならないのでは、
と想像します。


ただ、どちらにしても機械にほとんどを任せることができるようになるので、
ほおっておくと人間はバカになってしまうと思います。


人間がバカになってしまっても、
エネルギー、資源が無限に続き、機械化された世界が永遠に続くのであればまあ、いいかとも思わなくもありません。
でもそんなことはきっとなくて、機械にほとんどを任せることができなくなったとき、人間の力で世界を回していかなければいけません。
その時、知性が衰退していれば、何もできなくなってしまうでしょう。

また第一に、バカになった人間ばかりになってしまった世界を見たくありません。
(べつにいーじゃん、今だってバカなんだし、という意見もあるかもしれないですが。個人的な感覚です)

よって、人間の鍛錬、という意味での教育は未来永劫残るべきだし、
続けていかなればいけない、と思います。


以上、終わります。

切腹と自殺〜理研 CDB副センター長 笹井先生の自殺を受けて

皆さんこんにちは。fusatonです。


今日は、衝撃的なニュースがありました。
NEWSを賑わせている小保方晴子さんのSTAP細胞論文のラストオーサー、つまり責任者である笹井先生が自殺された、というニュースです。


報道を見る限り、自殺ということは間違いなさそうです。
ご冥福をお祈りするとともに、とても残念な、そして情けない気持ちになりました。


笹井先生は、先端再生医療の第一人者であり、世界的な評価の高い人物だそうです。
若くして京大の教授になり、そのあともコンスタントにインパクトの高い発見、論文発表をしてきた、ということなのでしょう。
産業界とも連携し、単なる基礎研究にとどまらず、多面的に研究を野心的に進めてきた、本当に優秀な人物であることを報道は伝えています。


そのような、まさにエリートが、なぜこのような結末を迎えたのか。
私には、この自殺は「逃避」にしか見えません。


自分の名誉、自分のことだけを考えた結果にしか見えないのです。
昔の日本には「切腹」という、死によって責任をとる文化がありましたが、これとは全く違うと思います。


切腹は、罪であることをお上なりなんなりがさばいたうえで実施されるもので、言ってみれば死刑の位置づけなのだと思います。


現代の自殺は、「自分で死ぬ」というところだけみると切腹と似ていますが、「裁きを受けて自分で死ぬ」のと、「自分で勝手に死ぬ」という意味において全く異なるものだと思います。


現代の自殺は、自分で自分をさばいて、勝手に死んでいきます。
その行為は、私は最低の「逃げ」の手段であると思います。


さらに、いままで「挫折」をしたことがなかったからこそ、このような衝動的な逃避行動に走ってしまったのではないか、そんな風に思ってしまいます。



STAP論文は、笹井先生にとってみれば全世界的なレベルで失敗をさらしてしまったことには違いないと思います(たとえSTAP細胞があったとしても)。


ですが、逆に言えばたかが一本の論文です。ただの紙の束です。
その内容に不手際があった、それもかなり偽造・ねつ造である可能性が高かったとしても、指導監督者としての責任をとればよいだけのことであり、所属組織を辞する、マスコミから、科学界からバッシングにあう、という相当の罰があったとしても、現在の法制度では死刑には絶対にならないと思います。


つまり、現代の民主主義においては、命を失うほどのことでもないし、逆にこれだけのことで命を絶ってしまうような人間、(研究者という人種)は、「信用できない」ということになってしまうのではないかと思うのです。


インテリ、という言葉は若干古いですが、まさに笹井先生はそのインテリであったと思います。
しかし、そのインテリが「自殺した」ということは、日本に、世界にいわゆるインテリと呼ばれる人たちは粘りがない、自分によくないことが降りかかってくるようであれば、死んででも逃げる、信用できない人である、という印象を抱くのではないか、と考えてしまします。


だれも、日本には侍がいる、笹井先生は侍であった、とは言わないと思うのです。


インテリが信用を無くす、ということは世界の人々は知性に敬意を払わくなってしまうことを意味します。これはとてもまずいことだと思います。


そうした意味で、とても残念だし、根が深い問題であると思います。


最後に、残された小保方さんはぜひこのような卑怯な責任の取り方はしないでいただきたい、切にそう思い、今回は終わりとします。

教育原論〜教育の本来の目的、姿とは〜

皆さんこんにちは。fusatonです。
きょうは、教育についてです。


教育は誰もが受けたことがあり、
何かしらの意見をもっているといいます。
いままでこのブログであまり触れてきませんでしたが、これからは扱っていきたい思います。


さて、今日は教育原論と題して、教育の本来の意味を考えてみました。


■教育の本来の目的とは、「火の使い方を教えること」ではないか


いったいなんのことかと思うかもしれませんが、教育の本来の目的とは、人間が社会生活を営む上で、知っておかなければいけないことを教えること、なのではないかと思います。


原始的な生活(日本で言えば縄文時代弥生時代)においては、火を起こす、獲物を捕らえる、作物を収集する、穀物を育てる、といった基本的な事が、誰もができるようになっている必要があります。


原始的な人間の集団は、労働をする人たちと労働しない人たちに二分できると思います。労働するのは健康な大人、労働しないのは子供、高齢者などです。
そして当たり前ですが、子供はいずれ大人になるので、労働しない人から労働する人になります。


では、新しく集団に参加する子供たちはどのようにして火をおこせるようになったのか。


そこに教育の原点があると思うのです。


子供たちは、見様見真似で自然にできるようになることもあれば、親など身の回りの大人から教えてもらってできるようになることもあるでしょう。
この時、周りの大人は、見守ること、困っていたら助ける、というのが基本的態度だったのではないでしょうか。


これが「教育の原始的な姿」なのだと思います。
つまり、なにもできない子供が、大人が「導く」ことで、人間集団の中で生きていくために必要なことが出来るようになる。
そしておそらく大人たちはある一定の時間を訓練期間としていたのではないでしょうか。


その間、大人から積極的に教えることもあれば、子供が自ら学んでできるようになることもある。なにかにチャレンジして出来れば褒めて、失敗があれば叱ったり、アドバイスしたりしたと思うのですが、おそらくそこでは「大人の態度」があったのではないかと思うのです。


■原始的な教育から考える、教育する側に求められる態度

大人の態度とはなにか。


それは失敗を許容すること、かならずこの子は成長すると信じることだとおもいます。


火を自分で起こせるようになる子供もいれば、まちがって火傷をしたり服や家を燃やしてしまう子供がいたかもしれない。
そんな甘いことでは昔は厳しかったから上手く行かないのでは、と反論される方もいるかもしれません。
ですが、僕は逆で、人口が少なく、子供が貴重(生まれて健康に育つの子供は少なかったと想像します)であった時代には、とても大切に育てたのではないかと思います。


また大人も、明日の生活のために子供を育てることに本気なので、気迫もものすごかったのではと思います。
そんなプレッシャーの中で学ぶ子供も大変だったとはおもいます。


ただ、それも含めて、この「大人の態度」が子供を育て、できないことができるようになる重要な要素だと思うのです。


■現代の教育はどうあるべきなのか


ここまで、古代の教育の姿を想像してきました。
では現代の教育はどうあるべきなのか。


すでに述べた「大人の態度」は、どんなに時代が進んで技術が進もうとも普遍的な考え方なのでは、と思います。
つまり、親・先生は子どもは必ず成長すると信じることができないと、子供は成長できないと思います。


また、一方でテクノロジーが進んできたことで、個別学習ができるようになってきています。


そこで、今のような1年で決められたことを学習していくというやり方を変えて、その子にあったスピードで、
かつ自分の「学びたい」という意思を動機とするような教育が可能になってくるのでは、と考えます。


そしてそれは原始的な姿と重なる部分もあると思います。おそらく、このような姿が教育のあるべき姿なのではないか、
とも思うのです。


次の機会には、現代のそして未来の教育はどうあるべきかについて論じてみたいと思います。


以上、終わります。

あなたには何が見えていますか〜ユクスキュルの環世界から考える〜

皆さんこんにちは。fusatonです。


今日は、動物学者ヤーコプ・ヨハン・バロン・フォン・ユクスキュルの代表的な著作である「生物から見た世界」に着想を得て、日常生活に生かせる考え方を話したいと思います。


■「生物から見た世界」とは

「生物から見た世界」には、本の主題をうまく表現している「蚤」の話があります。それはこんな話です。


蚤は動物の血液を糧に生きている動物である。その蚤には、明るさを感じる原始的な目と、エサとしている動物の放つ乳酸のにおいを感じる原始的な鼻のような器官しかない


だが、たったそれだけで蚤は生き続けることができる。

明るい方によろよろと歩いていくと、樹木にのぼりはじめ、もっと明るいところを目指すと、今度は枝の先に至る。


そこで行く先がないのでじっとまっていると、今度は乳酸のにおいがする。そのときに手足を枝から話せば、動物の身体の上に落ちることができ、エサにありつけることができる。失敗すれば最初からやり直し。


ここでは蚤を例として、動物は「生きるために必要な行動」、もっと言えば「自分の利益になる行動」のために必要な情報しか感知しない、ということを言っています。


そして、それは同じ動物である人間にも当てはまるのである、というのがユクスキュルの言いたいことなのだと思います。


この、「自分の利益になる行動のために必要な情報」によって構築される世界を「環世界」(Umwelt)と名付けています。



■あなたの「環世界」はなにか


さて、人間の世界における「環世界」とはなにか。
もちろん人間には立派な目も鼻もついていますし、味覚だって、触覚だって、聴覚だってあります。なので、さすがに蚤よりは話は複雑そうです。


僕は、人間の世界で「環世界」のことを考えるには、各人の職業から考えるとわかりやすいのでは、と思います。
先ほども述べたように「自分の利益になる行動のために必要な情報」は、人間の世界では仕事の上で有利になる情報のことで、人間はそのような情報を優先的に処理するようになっている、と考えています。


例えばあなたがデイトレーダーでしたら、
株式市場の株価にはとても敏感になるでしょうが、
そうではない私にとっては単なる数字にすぎません(ちょっといいすぎましたか)


逆に私が昆虫収集家だったら、そのあたりに歩いている虫にとても敏感になるでしょうか、そうではない人には目にもとまらないでしょう。


日常生活で考えてみても数え上げればきりがないほどの例があると思います。


と、こんな風に、同じ人間で、同じように、視覚に、聴覚に、そのほかの器官に同じように信号が入力されていても、その人がどんなことを生業としているか、どんなことをしているか、によって、なにが「見えているか」、「感じているか」はさまざまです。まさに、人それぞれが異なる「環世界」を持っている、と言えるのだと思います。


さて、あなたの「環世界」はどんな世界でしょうか。
あなたはどんな仕事をしていて、その仕事ではどんな情報がメリットがあるのか。
それ考えることは、自分を見つめなおすことでもあり、自分の「環世界」を発見することでもあります。
ぜひ、蚤の気持ちになって、自分に利益をもたらしてくれる情報について考えてみてください。



■相手の「環世界」はなにかを考えると、その人の理解が深まる


ではこの環世界という考え方を知っていると、どんないいことがあるか。
一つは相手の気持ちや、ある情報があったとき、相手がどんな風に感じるのか、相手にとってメリットがあることなのか、といったことを想像しやすくなるのでは、と思います。


そのことで、コミュニケーションのやり方も変わっていくでしょうし、
へんな言い方ですが、相手を説得するようなこともやりやすくなるかもしれない。


相手の環世界の見抜くことができれば、良いコミュニケーションがとれると思うのです。相手が仕事で利益をあげるためにはどんな情報に価値を見出すのか。相手が好きなことでいい思いをするためにはどんな情報に価値を見出すのか。相手の環世界がを知ることできれば、これからどんな環境でも生きていくことができるのでは、と思います。

以上、終わります。