教育原論〜教育の本来の目的、姿とは〜

皆さんこんにちは。fusatonです。
きょうは、教育についてです。


教育は誰もが受けたことがあり、
何かしらの意見をもっているといいます。
いままでこのブログであまり触れてきませんでしたが、これからは扱っていきたい思います。


さて、今日は教育原論と題して、教育の本来の意味を考えてみました。


■教育の本来の目的とは、「火の使い方を教えること」ではないか


いったいなんのことかと思うかもしれませんが、教育の本来の目的とは、人間が社会生活を営む上で、知っておかなければいけないことを教えること、なのではないかと思います。


原始的な生活(日本で言えば縄文時代弥生時代)においては、火を起こす、獲物を捕らえる、作物を収集する、穀物を育てる、といった基本的な事が、誰もができるようになっている必要があります。


原始的な人間の集団は、労働をする人たちと労働しない人たちに二分できると思います。労働するのは健康な大人、労働しないのは子供、高齢者などです。
そして当たり前ですが、子供はいずれ大人になるので、労働しない人から労働する人になります。


では、新しく集団に参加する子供たちはどのようにして火をおこせるようになったのか。


そこに教育の原点があると思うのです。


子供たちは、見様見真似で自然にできるようになることもあれば、親など身の回りの大人から教えてもらってできるようになることもあるでしょう。
この時、周りの大人は、見守ること、困っていたら助ける、というのが基本的態度だったのではないでしょうか。


これが「教育の原始的な姿」なのだと思います。
つまり、なにもできない子供が、大人が「導く」ことで、人間集団の中で生きていくために必要なことが出来るようになる。
そしておそらく大人たちはある一定の時間を訓練期間としていたのではないでしょうか。


その間、大人から積極的に教えることもあれば、子供が自ら学んでできるようになることもある。なにかにチャレンジして出来れば褒めて、失敗があれば叱ったり、アドバイスしたりしたと思うのですが、おそらくそこでは「大人の態度」があったのではないかと思うのです。


■原始的な教育から考える、教育する側に求められる態度

大人の態度とはなにか。


それは失敗を許容すること、かならずこの子は成長すると信じることだとおもいます。


火を自分で起こせるようになる子供もいれば、まちがって火傷をしたり服や家を燃やしてしまう子供がいたかもしれない。
そんな甘いことでは昔は厳しかったから上手く行かないのでは、と反論される方もいるかもしれません。
ですが、僕は逆で、人口が少なく、子供が貴重(生まれて健康に育つの子供は少なかったと想像します)であった時代には、とても大切に育てたのではないかと思います。


また大人も、明日の生活のために子供を育てることに本気なので、気迫もものすごかったのではと思います。
そんなプレッシャーの中で学ぶ子供も大変だったとはおもいます。


ただ、それも含めて、この「大人の態度」が子供を育て、できないことができるようになる重要な要素だと思うのです。


■現代の教育はどうあるべきなのか


ここまで、古代の教育の姿を想像してきました。
では現代の教育はどうあるべきなのか。


すでに述べた「大人の態度」は、どんなに時代が進んで技術が進もうとも普遍的な考え方なのでは、と思います。
つまり、親・先生は子どもは必ず成長すると信じることができないと、子供は成長できないと思います。


また、一方でテクノロジーが進んできたことで、個別学習ができるようになってきています。


そこで、今のような1年で決められたことを学習していくというやり方を変えて、その子にあったスピードで、
かつ自分の「学びたい」という意思を動機とするような教育が可能になってくるのでは、と考えます。


そしてそれは原始的な姿と重なる部分もあると思います。おそらく、このような姿が教育のあるべき姿なのではないか、
とも思うのです。


次の機会には、現代のそして未来の教育はどうあるべきかについて論じてみたいと思います。


以上、終わります。