意思決定における科学者の扱いかた 〜科学者を「神」にしないために〜

2日あいてしまいましたが、今回も科学者と社会のかかわりかたについて考えたいと思います。
今日は、科学者の発言を意思決定に有効に生かすためには、受け取る側の心構えや、ルールが必要なのではないか、というお話です。


■科学者の発言は要注意
科学者が社会の意思決定に影響し始めている、ということを先日指摘しました。


そして、意思決定にはたくさんの人や国の命運が左右されます。環境問題などで、科学者の発言が、社会に大きな影響を与える場面が大きくなってきています。


ですが、科学者の発言は「仮説」であることが多く、またその信用の高さを逆手にとって、悪意のある発表がなされることもあり、取り扱いに注意が必要です。


科学者に守るべきルールがなければ、彼らは発言に責任をおう必要がなく、何でもありの世界になります。やろうと思えば、世界を意のままに動かせてしまうかもしれません。


そうならないように、科学者が社会に何か発言する場合や意思決定に何らかの発言をする場合には、発言を受け取る側の心構えや、ルールが必要だと思います。


これらについて考えたいと思います


■「事実」と「仮説」を明確に見分けよう
まずはじめに、科学者の発言を受け取る側の心構えについて述べたいと思います。


まず、発言を受け取る側として、科学者の発言が「事実」なのか「仮説」なのか、その切り分けを明確にしなくてはいけません。


なぜならば、「事実」なのか「仮説」なのかによって、それを基にした意思決定が大きく異なってくるからです。

例として、ゴキブリホイホイを製造・販売している会社に、ある科学者が助言するする立場にいるとします。


たとえば、ゴキブリが絶滅したという「事実」があり、科学者がそれを伝えたとします。これは事実ですので、ゴキブリホイホイを扱う会社はその商売をあきらめなければいけません。


しかし、ゴキブリが絶滅した、というのが「仮説」であれば、会社はまずそれが本当なのか確認するところから始めないといけません。もし間違いであるのに、仮説を信じて商売をたたんでしまえば、損失になります。(検証の前にゴキブリホイホイの売れ行きからわかりそうな気はしますが、例なのでそのへんはご容赦ください)


また科学者の発言の仕方によって、その信用も違ってきます。
「仮説」を「事実」として伝えたり、「仮説」であることを明示ぜずに伝えたりすれば、それを事実と思っている人は、科学者の発言が誤っていたときその信用をなくすでしょう。


しかし、「仮説」であることをつたえていれば、はじめから間違っているかもしれない、ということがわかるので、信用を失うという事態には陥らないでしょう。


発言を受け取る側としては、事実なのか、仮説なのかで対応がことなるので、そのどちらかなのかを見極める必要があります。


また科学者としては、自分の信用を確保するため、仮説であるかどうかを明確にしなくてはいけないと思います。


■仮説はリスクヘッジのために用いる、という考え方〜天気予報にみる仮説との付き合いかた〜


仮説には、その確かさに濃淡があると思います。
ほぼ確からしい仮説と、まったく当てにならない仮説があります。そして、その仮説の濃淡によって私たちは意思決定を左右されます。


わかりやすいのは天気予報の例です。


天気予報は、「明日の降水確率はXX%です」という風に、パーセントで明日の雨が振る見込みを伝えます。


これは仮説の一種です。そして確率はその仮説の確からしさをあらわしています。


そして確率が低ければ傘を持っていかないひとも多くなると思います。確率が高くなれば、傘を持っていく人が多くなるでしょう。

つまり、「仮説の確からしさ」は、意思決定を左右するのだとおもいます。


これは、すでに市民が科学者の「仮説」とうまく付き合っている一つの例です。


つまり、仮説という、不確実なものを鵜呑みにせず、自分の意思でどうするかを決めています。
あたらないかもしれないから、傘を持っていかない、という判断をしています。


これは、科学者の言ったことは絶対である、正しい、というように盲目的に信じるのではない、正しい付き合い方の一例だと思います。


科学者の仮説はリスクヘッジのための1つの参考情報に過ぎないのです。そしてこれは天気予報のみではなく、さまざまなな場面でも通用する考え方だと思います。


■科学者の社会に対する発言における正しいあり方とは


これまでは、科学者の発言を受け取るほうはどのように考えるべきか、ということを考えてきました。


次は、科学者側の観点から、どうあるべきかを考えたいと思います。

まず、科学者は「事実」であるのか「仮説」であるのか、明確に述べるべきです。そして、「仮説」である場合には、どのくらい確からしいのかを努力して伝えるべきです。


なぜならば、それを受け取った側の人の意思決定、行動がそれによって大きく異なってくるからです。


また、発言が事実であろうが、仮説であろうが、その根拠となるデータやそのデータを得るための方法が、科学的に意味のあるもの、正しいことが証明されていることに責任を持つべきです。


科学の世界ではこれらが必ずも守られているとは言いがたい状況にあります。データの捏造問題が何度も起きています。
データの信用性を保証するはずの科学の専門雑誌の出版社も、その本来の役割を果たせていません。


また昨年のIPCCの問題については、雑誌の出版社のようなチェックを果たす機関がないようです。


なので、これからはデータの正しさ、実験方法の正しさを監査する第三者的な機関が必要なのかもしれません。


そして、データの捏造などを行った科学者は、科学界から追放されるというような形ではなく、刑事、もしくは民事で法によって裁かれる、ような仕組みが必要なのではないでしょうか。


このようなことをすると科学の発展の妨げになってしまう可能性があります。(科学者が萎縮して、研究発表を行わなくなってしまうなど)


しかし、実際に捏造問題が起きていること、社会の側に影響を与えていることを考えると、仕方のないことです。


もちろん、科学者の世界で自浄してもらうのが一番だと思いますが・・・



■まとめ
今回は、科学者とその発言を受け取る側で気をつけるべきでは、と思うことをまとめました。


このようなことを前提においた上で、初めて意思決定において、科学者の発言を有効に活用することができるのでは、と思います。


※以上は私の個人的な考えです。